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ドリフ入りまで
東京都出身だが、幼い頃両親が離婚し、物心つく前に母親に引き取られ福島県福島市で妹と共に暮らす。学法福島高校入学。愛媛県出身だという説もある。 高校中退後、1960年東京の叔母を頼って上京。 上京後、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズのバンドボーイをやるが、ある日手当ての100円をマネージャーに催促したところ、マネージャーに100円を投げつけられ、頭に来てマネージャーと喧嘩して首になる。その後、ドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(現、仲本工事)と出会う。 1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」にメンバー入り。 ※以上は『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)による。尚様々な文献で、年代や住所等の証言が食い違い、高校は卒業となっていたり、両親離婚後は父親と共に日本中を旅歩いていた等々の記述も見られる。どれが本当かは不明である。 ドリフ時代 1964年には、ドリフの初レギュラー番組『ホイホイミュージックスクール』にて、「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者となる。これは、付け髭の糊が剥がれやすかったために、度々2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと本人が語っている。 1964年、ドリフ内部で発生したクーデター(詳細はザ・ドリフターズを参照)の際、碇矢と共にドリフに残り、新生ドリフを立ち上げる。新生ドリフ結成直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい。お前は、みんなから、「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、芸名が加藤茶となった(これは「茶」が水と関連しているからとも言われている)。 1969年より『8時だョ!全員集合』にて、様々な一発芸をヒットさせ、1970年代前半には小学生の間でカリスマ的存在となる。この時代のトレードマークは禿げヅラにビン底メガネにちょびヒゲであり、現在タレントショップ等で売られている彼のキャラクターグッズも、それらを装着した姿をモチーフにしたものが多い。 社会や人間関係の縮図をディフォルメした初期のコントや映画に於いては、お笑い(いつも損をする役、イジメられ役、笑われ役)の中心で、ドリフメンバーの中で最も持ちネタやギャグが多かった。特に「タブー」の曲に合わせて踊る「ちょっとだけよ」は大ブレークした。 2004年、いかりや長介が死去したことにより、ザ・ドリフターズの最古参メンバーとなった。いかりや長介の葬儀の際には、最古参メンバーということで、年長の高木ブーに代わって弔辞を読んだ。この中で、加藤は「これからオレたち4人で、ドリフターズ、やっていくよ。あんたが残した、財産だからね。あ、でもそっちからいきなり「全員集合」って言われても、俺たちすぐには行けないからね…」と読んでいる。これはいかりやに向けた、加藤の決意表明でもあった。 現在「加トちゃんBAND」、「こぶ茶バンド」のメンバーを兼任し、お笑いだけでなく、ミュージシャンとしても活躍している。 ドリフ全盛期の頃いかりや長介にガミガミ怒られたとき、こっそりいかりや長介の私物にいたずらをしていたことを暴露した。 ザ・ドリフターズを知らない最近の若者・子供でも、志村けんと共にまず知らない人はいない知名度を誇る芸人(タレント)である。 スピード狂のところがあり、1970年に交通事故を起こしたり、1987年には首都高速を80キロオーバーの時速143キロで走るなどのスピード違反で数回処分歴あり。後の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』でも、カーアクションシーンでの運転(実際のアクション部分はもちろんスタントか代用人形だったが)はだいたい加藤である(ただし、これは志村が運転免許を持っていないため志村の運転だとリアリティに欠けるというのも一因である)。 弟子は不明だが全員集合時代、付き人兼居候に志村けん、運転手にすわしんじ(現・すわ親治)がいた。 1987年11月に結婚した夫人と2003年3月に熟年離婚したが、病気療養中のいかりや長介に心配をかけないようにとの心遣いから、このことはいかりやの死後まで公表しなかった。 いかりや曰く「ネタを積極的に出すタイプではなかったが、笑いを誘う間が良かった。ミュージシャンとしての才能、特にリズム感がお笑いでも生きている」。音楽活動やドラマ、トーク番組と今でも活動範囲は広い。 ドラマーとしての評価も高い。全員集合で披露した素晴らしい演奏は語り草である。 新生ドリフは、全員集合終了までソロ活動を行なわせなかったといかりやは語っているが、加藤のみクレージーキャッツの植木等と映画で共演していた。 60歳を越えた現在でも銀座通いを続けているらしく、本人いわく夢は「100歳になるまで同伴出勤」。仕事の無い日は一晩中呑んで帰宅し、朝7時に就寝する生活をしていることを『クイズ!紳助くん』内で激白し、司会の島田紳助から「ただのアホな子どもですやん!62(歳)で朝7時に寝るジジイおらんで」とツッコまれている。 深夜に起きている生活からか、『松紳』などの深夜番組をよく見ているらしい。 最近では、それぞれの県や観光地ごとに自身がキャラクターモデルとなった「御当地加トちゃん」が発売されている。「御当地加トちゃん」の第1号は、2000年に静岡県限定で発売された「茶っきり加トちゃん」である。 最近はバラエティ番組においても「家に帰っても誰もいないんだよ」などと自らの離婚をネタにしたトークを繰り広げることが多くなった。とくに、「行列のできる法律相談所」において離婚を決意した日のことを語ったときにはあまりの内容の重さに司会の島田紳助から「その続きはその時歴史が動いたでやってもらいましょ」といわれるほどだった。 細木数子の番組「ズバリ言うわよ!」にてゲスト出演した際、初体験が小学校4年の時であることをカミングアウト。本人曰く、「運が良かったんでしょうね」。 ギャンブルは穴狙いで、「木梨サイクル」にて見事的中させる様子が放映された。大量の札束をポーカーフェイスで受け取る加藤に対し、木梨憲武が「加藤さん」と言ってその後絶句したが、加藤は「え、なに?」と一切興奮した様子を見せなかった。
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生年月日: 1988年3月18日
出身地: 愛媛県 公称サイズ(2006年時点) 身長: 157 cm スリーサイズ: B80 W59 H81 足のサイズ: 23.5 cm 備考: 血液型B型 モデル活動 ジャンル: グラビア、モデル モデル内容: 水着、一般 備考: 雑誌 他の活動: タレント 趣味:服を買うこと、人間観察 特技:跳び箱 特徴:ほっそりした体つきと笑顔がポイント。 2006年6月下旬、「ミスマガジン2006」で「審査員特別賞」に選ばれ、また「高校ラグビー賞」も受賞した。 2006年7月9日、東京都池袋サンシャインシティ噴水広場にて、ミスマガジン2006のお披露目イベントが行われた。同イベント内では先輩ミスマガジンから、ミスマガジンのユニホームが渡され、正式にミスマガジンフットサルチームに加入、ちなみに背番号は「23」。 ミスマガジン2006の最終選考の沖縄撮影会で、初めてグラビア撮影をした。 早生まれであるため、同じくミスマガジン2006の倉科カナ、松井絵里奈とは同級生であり、草場恵とは同い年である。ちなみに仲村みうとは誕生日が4日違いである。 ミスマガジンフットサルチームのライバルチームTEAM dreamの石坂結と生年月日が同じ。
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略称は「キング」、又は「キンコメ」。2人は前者で呼ばれる事を望んでいるとされる。人力舎の内部グループのビジトジに参加している。
グループ名は、先輩芸人アンタッチャブルをならってロバート・デ・ニーロが出演している巨匠マーティン・スコセッシの映画『キング・オブ・コメディ』(The King of Comedy)から拝借した。以前は「パフィ」、「おもしろコンビ」というグループ名だった。 2005年、第3回お笑いホープ大賞を受賞した。 今野浩喜 (こんの ひろき、1978年12月12日 - )は、ボケ担当。血液型は多分A型。不細工として有名。コントでよく子供を演じる。 地元 埼玉のヤンキーに「いつも見ていますっ」と応援されている。 よく相方に胸毛を燃やされる。田上よしえと恋愛的な相性が良いらしい。西武ライオンズファン。 高橋健一 (たかはし けんいち、1971年3月30日 - )は、ツッコミ担当。血液型はAB型。愛称は「パーケン」。ライブで観客が「たかけん」と叫んだのを、「パーケン」と聞き間違えた事に由来する。喋りやコント中によく噛む。 ちなみにタレントの優香が好きな芸人NO1。顔に似合わずドMだったりする。釣りが好き。 猿岩石と同じ時期にインドを放浪していたらしい。スピードワゴン小沢、アンガールズと仲良し。 意外と器用。
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本来、家族会議で「直樹」と命名するつもりだったが、父親が許可を得ずに「靖」という名前で、出生届けを出したという。
3歳から歌い始め、1966年10月にフジテレビの「ちびっこのどじまん」で、荒木一郎の『今夜も踊ろう』を歌い、優勝する。 中部日本放送の「どんぐり音楽会」に出演し、ザ・ワイルド・ワンズの『青空のある限り』を歌い、1位に輝いた。のちに実母とともに上京し、プロを目指す。 芸名は飛騨山脈の野口五郎岳に由来し、名付け親はポリドールレコードのディレクターといわれている。なお、黒部五郎岳にちなんだ「黒部五郎」も芸名の候補の中にあった。 現在では、山の名前が歌手にちなんで付けられたと誤解している人さえいる。 1971年に『博多みれん』で演歌歌手としてデビューしたが全く売れず、2曲目の『青いリンゴ』からポップス歌手に転向すると、甘いマスクとナイーブな性格が若い女性ファンの人気を獲得し、後にデビューした西城秀樹、郷ひろみと共に新御三家と呼ばれて、一躍スーパーアイドルとなる。 非凡な才能が有望視され、1972年のNHK紅白歌合戦で異例となる最年少・初出場歌手に大抜擢される。 オリコンのヒットチャートでは、1973年に『オレンジの雨』で初のベストテン入りを果たすと、続く『君が美しすぎて』が第3位にランクされる。そして1974年には『甘い生活』で遂に念願の第1位を獲得する。 明けて1975年、実兄(佐藤寛)作曲による『私鉄沿線』が有線放送から火がつき、連続してオリコンのヒットチャートの第1位に輝く。日本有線大賞のグランプリ、日本レコード大賞の歌唱賞、日本歌謡大賞の放送音楽賞など、その年の各音楽賞を総なめし、一躍トップスターとして、脚光をあびる。以来、しっとりして伸びのある歌声と技巧的な歌唱法には定評があり、日本歌謡大賞の放送音楽賞を5年連続受賞するなど、毎年の各音楽賞の常連となり、地味ではあるが息の長い大人の歌手として活躍する。 2001年に三井ゆりと結婚し、2004年5月2日に2994グラムの第二子となる男児が誕生した。 ギタリストとして ギタリストとしても、卓越した音楽センスを披露した1982年と1993年のインスト・アルバムは高い評価を得ている。 四人囃子から森園勝敏が脱退した際、その後任候補と噂された事もある。 2005年にはヘヴィメタル専門番組ヘビメタさんに出演。元メガデスのマーティ・フリードマンと競演する。 タレントとして 1990年代からは歌手活動よりもバラエティ活動に力を入れるようになったが、「新御三家の中で一番歌が上手い」と言われたその歌声は毎年恒例GW六本木STBでのライヴで堪能できる。 俳優として 俳優としても独自のポジションを確保しており、『カックラキン大放送』で既にその片鱗が見られる。 1999年に放送された『ケイゾク』での怪演は記憶に新しい。 2002年に放送されたNHKの連続テレビ小説『さくら』では、ヒロイン・さくら先生(演:高野志穂)の赴任先となる中学校の英語担当教師を熱演していた。 音楽プロデューサーとして 音楽プロデューサーとして、2005年に音楽映像配信サイト『音コレ』(2006年7月20日、『Gプロデュース』と改名)を立ち上げ、ものまね、インディーズ、オリジナル楽曲をプロデュース。網野泰寛などもプロデュースしている。DoCoMoの公式サイトにおいても、「音コレものまねMIX」として着うた、着モーションなどを配信中。 『博多みれん』(1971年5月1日、※デビュー曲) 『青いリンゴ』(1971年8月1日、※演歌からポップスに転向) 『めぐり逢う青春』(1972年9月1日、※第23回NHK紅白歌合戦初出場曲) 『オレンジの雨』(1973年3月21日、※初のベストテン入り曲) 『君が美しすぎて』(1973年7月1日、※第24回NHK紅白歌合戦2回目出場曲) 『愛さずにはいられない』(1973年10月21日) 『告白』(1974年4月25日) 『愛ふたたび』(1974年7月21日) 『甘い生活』(1974年10月20日、※第25回NHK紅白歌合戦3回目出場 - レコード大賞作曲賞受賞 - オリコン一位獲得曲) 山上路夫作詞 筒美京平作曲・編曲 『私鉄沿線』(1975年1月21日、※第26回NHK紅白歌合戦4回目出場 - 日本有線大賞受賞 - レコード大賞歌唱賞受賞 - 歌謡大賞放送音楽賞受賞 - オリコン一位獲得曲) 山上路夫作詞 佐藤寛作曲 筒美京平編曲 『哀しみの終わるとき』(1975年4月21日) 『夕立のあとで』(1975年7月10日) 『美しい愛のかけら』(1975年10月21日) 『女友達』(1976年2月10日) 『きらめき』(1976年6月10日、※日本テレビ音楽祭グランプリ受賞 - 東京音楽祭ゴールデンスター賞受賞曲) 『針葉樹』(1976年9月10日、※第27回NHK紅白歌合戦5回目出場 - レコード大賞歌唱賞受賞 - 歌謡大賞放送音楽賞受賞曲) 『むさし野詩人』(1977年1月15日) 『季節風』(1977年7月21日) 『風の駅』(1977年10月25日、※第28回NHK紅白歌合戦6回目出場 - 歌謡大賞放送音楽賞受賞曲) 『愛よ甦れ』(1978年2月21日) 『グッド・ラック』(1978年9月1日、※第29回NHK紅白歌合戦7回目出場 - 歌謡大賞放送音楽賞受賞 - レコード大賞金賞受賞曲) 『真夏の夜の夢』(1979年4月21日) 『青春の一冊』(1979年9月15日、※第30回NHK紅白歌合戦8回目出場 - 歌謡大賞放送音楽賞受賞曲) 『コーラス・ライン』(1980年5月1日、※第31回NHK紅白歌合戦9回目出場曲) 『氷を揺らす人』(1981年4月25日) 『ダイヤル177』(1981年12月25日) 『19:00の街』(1983年1月25日、※第34回NHK紅白歌合戦11回目カムバック出場 - 東京音楽祭世界大会フリオ・イグレシアス賞受賞曲) 『一人は好きですか』(1984年5月1日) 『愛がメラメラ - SMOOTH - 』(2000年4月5日) サンタナのカバー。「GORO」名義で発売。 『私鉄沿線02/星屑の町/ノー・ノー・ボーイ』(2002年10月23日) 野口五郎/三橋美智也/ザ・スパイダースのカバー。 『Sweet Rain/銀座線』(2003年9月26日) 作曲/筒美京平、プロデュース/松尾潔
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7歳の時に日本テレビドラマ『パパと呼ばないで』に出演し、天才子役の名をほしいままにする。当時の月収は約1000万円だったと自称する。しかし収入の大半を母に使われてしまい、杉田自身は苦しい生活をしていたという。やがて仕事が激減し、両親は離婚。
その後、母に嫌気がさした杉田は、新しい芸能事務所を設立するが倒産し、13歳にして借金300万円を背負う。借金を返済するため新しい事務所に入って借金を立て替えてもらい女優業を再開。1979年から1980年に放送されたTBSのドラマ『3年B組金八先生』で妊娠する中学生を演じて再び話題を集めた。 1980年、日本テレビドラマ『池中玄太80キロ』などに出演し、その挿入歌として歌った「鳥の詩(とりのうた)」をリリースしてヒットするなど人気を集めたが、月給13万円のままで不満を持っていた杉田は事務所を出奔。しかし、事務所に買ってもらったマンションのローン約2000万円を背負うことになってしまった。 新たに借金を背負った杉田は再び独立。写真集のグラビアモデルを皮切りにドラマ・映画出演でギャラをアップさせることに成功。更に残ったマンションを売却したお金で不動産の転売を続けたことで利け、借金を返済した。 1982年には映画「青春の門 自立編」でヌードを披露。 26歳の時、父親の連帯保証人で再び借金1億円を背負う。大半の財産を失い、残った全財産は小銭入れの中の800円だけだったという。当時は仕事も激減してどん底に。 1995年、それまで入信していた創価学会を脱会。日蓮正宗の信徒となる。 1998年、篠山紀信撮影による初のヘアヌード写真集「女優ごっこ」を出版した。17歳時に撮影したヌード写真と、34歳を迎えるに当たって撮り下ろしたヘアヌード写真で話題を呼んだが、武田鉄矢に酷評される。 2000年頃からそれまで殆ど出なかったバラエティ番組に進出。『わらいのじかん』などに出演し、毒舌キャラが人気となりお笑いタレントとしてブレイク。「無頼派タレント」の異名を取るようになり、出演番組も激増する。 2004年7月14日にかつてヒットした「鳥の詩」をポニーキャニオンから再リリース。オリコンチャート(週間)では初登場40位だった。ジャケットは、杉田のマネージャーを務める実妹によるデザイン。 2004年8月21日〜8月22日に放送の日本テレビ「24時間テレビ」で24時間チャリティーマラソンに挑戦。女性としては2001年の研ナオコ、2002年の西村知美、2003年の山田花子に次いで4人目だった。番組開始が15分遅れたため、20時5分のスタートとなったが、見事100kmを完走した。記録は25時間15分。 2005年1月11日に、日産コンツェルン創始者・鮎川義介の孫である鮎川純太(株式会社テクノベンチャー会長兼社長)と結婚し、1月13日にマスコミ各社にFAXで発表した。これをワイドショーは「セレブ婚」と騒ぎ立てたが、結婚生活は順調とはいかず、同年6月30日に夫が離婚を決意したと報じられた。杉田は「離婚は誤報」と生放送で語ったが、2005年7月25日に関西のローカル番組で、芸能ジャーナリストの井上公造が鮎川が家庭裁判所に離婚調停を申し立てたことを暴露する。結局、結婚から7ヵ月後の2005年8月11日に離婚。 なお、杉田との離婚騒動の際に、杉田が関西テレビの「たかじん胸いっぱい」に出演して鮎川との結婚生活等を赤裸々に語ったことに関し、鮎川が「バラエティー番組における元妻の発言等によって、名誉・プライバシー権の侵害を受けた」として放送倫理・番組向上機構の人権委員会に訂正放送や謝罪などの人権救済の措置を申し立てた。委員会は検討の結果、杉田の発言が人権侵害に該当すると認定し、編集によるカットを怠った関西テレビに名誉・プライバシー侵害の責任があるとした。これにより関西テレビは、人権委員会の処分では最も重い「勧告」の処分を受けることとなった。 2005年頃からは再び女優としてテレビドラマに出演するようになり、『不信のとき〜ウーマン・ウォーズ〜』などに出演。 杉田かおる自身の借金については、テレビ朝日系バラエティ番組『愛のエプロン』内で完済したと語っていた。 杉田かおると母との関係は現在修復し、一緒に酒を飲みに行く仲になっている。だが、飲み屋で母が酔って若い男をナンパして困ると語っていた(ちなみに本名の橋本姓は母親の姓である。)。 テレビ朝日系バラエティ番組『ロンドンハーツ』のコーナー「格付けしあう女たち」で、青田典子が、「今すぐその元カレの電話番号を教えて。今すぐ電話をかけるから」と言ったことを暴露したが覚えていないらしい。さらに、ロンドンブーツ1号2号の田村淳が、「杉田さんは酔っ払うと凄い。男の人にあんたとねぇ、SEXしたい。11月2日空いてるわ。この日にしましょう」と言ったことを暴露したが、本人は全く覚えてない。他にも日本テレビの深夜番組にて、偶然新幹線で出会った男とその日のうちにホテル街へ消えたことも自ら暴露した。 『愛のエプロン』の常連出演者であるが、料理はほぼ失敗している。結婚を機に番組を降りていたものの、離婚したという事情もあり、2005年8月24日の放送分から復帰した。復帰第1回の料理はどじょうを使った柳川鍋と唐揚げだったが、やはりというべきか拙い物で、細川茂樹らをエチケットタイム行きにしている。細川からは「回し蹴りに対抗してライダーキックをかます!」(細川は同年に仮面ライダー響鬼を演じている)と怒りをぶちまけ、それを聞くや「そうきたか…」と愕然としていた。又、母と共に同番組で料理を作ったが、母も料理がへたで娘と同様の評価を受けてしまい、後日娘と共に同番組の企画で料理修行の旅へ行かされた。2006年3月15日の放送に出演した片岡鶴太郎のブログには、料理がすさまじいと書かれている。そして、ランキングには多岐川華子と最下位に並んだ。また次の回では、カレー南蛮うどんを作ったが、カレーうどんが好きだった男に嫌なことをされたことがあったため、その時の恨みが出てしまったせいか、食べた人はみんな取り付かれたかのように苦しんだ。お米を炊くこともまともにできず、ご飯を炊けばかならずベチャベチャになる。ただ、まれにみごとな料理を作るらしく、数回ほど中エプになったことがある。ワーストエプロン大賞候補に入っているもののワーストエプロン大賞は一度も取ったことはない。
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