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星野 仙一
愛称は「仙さん」「仙ちゃん」「闘将」「燃える男」。あるいは単に「仙」とも呼ばれる(かつては、お仏壇屋のテレビコマーシャルにも出ていたので、愛嬌をこめて「お仙公」とも言われた)。

父・仙蔵は戦前、三菱航空機製作所(後の三菱重工水島)の工場長を務めていたが、仙一出生の三ヶ月前に脳腫瘍で死去。母・敏子(本名・とし)は仙蔵の縁で工場の寮母として働く傍ら、仙一と二人の姉を育てた。阪神タイガースの筒井壮は甥(筒井の実母が仙一の下の姉)にあたる。

現役時代は中日ドラゴンズで投手として活躍し、現役引退後は、NHKの野球解説者を経て、中日・阪神の監督を歴任。監督時代に中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を果たしたが、一度も日本一になれなかった(優勝3回で日本一なしは西本幸雄に次ぐ)。また、現役時代にも2度リーグ優勝しているが、日本一経験はない。現在は阪神のシニアディレクターとして活躍しており、テレビ各局の野球中継にゲスト解説で招かれることもある。


アマ時代
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園出場を目指したが、高校3年生の夏、東中国大会の決勝で、鳥取県の米子南高校に敗れて出場を逃す(当時は複数県からの1校代表制)。卒業後、明治大学政治経済学部に進学した。ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。また、県内の一年後輩には後の大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代に直接対決したこともあるという。
明治大学では一年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算23勝、ノーヒットノーラン1回という記録を残した。が、田淵幸一・山本浩司・富田勝ら「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。読売ジャイアンツで活躍した高田繁は、大学の一年先輩にあたる。
大学時代は島岡吉郎監督を「オヤジ」「明治大学島岡学部野球学科出身」と慕い、その後の人生に大きな影響を受けた。また、当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除する為に、島岡の命を受けて野球部の同僚と共にバリケードへ殴り込んだというエピソードもある。

現役時代
1968年のドラフト会議で水原茂監督率いる中日ドラゴンズから1位で指名され、1969年入団。昭和40年代の漫画・アニメ『巨人の星』にも、背番号22(入団当時、1970年まで)の星野が登場して名を残している。入団3年目の1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、かわりに変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍。板東英二の唄う『燃えよドラゴンズ!』(1974年版、山本正之作詞・作曲)で「♪星野仙一強気の勝負〜」と唄われた、闘志をむき出しにする気合の投球で、中日投手陣のエースとして君臨した。与那嶺要監督時代の1974年には最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得し、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりの優勝に大きく貢献した。近藤貞雄監督時代の1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役を引退。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。その後は1983年から1986年までNHKの解説者を務めた。
ドラフト会議に際しては、巨人から事前に1位指名を約束されていた。が、巨人はこの約束を反故にして島野修を1位に指名、それを知った星野が「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったエピソードは有名である。この出来事が、選手時代から監督に至るまで一貫する打倒巨人のポリシーを形成させたと言われる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。セ・リーグを代表する巨人キラーとしてその名を轟かせた(なお、対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である)。
現役時代から、先輩には「礼儀正しい」、後輩には「面倒見がいい」と人望が厚かった。当時は後輩から「怖い兄貴」という印象を持たれていたようである。KOされた後輩投手を怒鳴りつけた後、すぐ「気分転換して来い!」とポケットマネーを渡したという話や、優勝のした時に自腹でクラブを一件貸し切りにしてチームメートに振舞ったという話、日本語も何もわからずその身一つで来日した郭源治を公私に渡って面倒を見続けていたという話など、人間関係に関する逸話は数知れない。
1969年10月10日、巨人の金田正一投手は対中日戦で通算400勝を達成したが、その試合の敗戦投手である。
1975年9月10日の広島戦(広島市民球場)、本塁上のタッチプレーを巡り新宅洋志と三村敏之が激しく言い争った。普段温厚な三村が激怒したとあって広島ベンチから選手が飛び出し、やがて観客も入り乱れての大乱闘へと発展した。この時、試合を観戦しに来ていた当時中学生の風見しんごが、この騒ぎに乗じて星野に砂をかけたという。後年風見が『ザ・ベストテン』に出演した時、スタジオから星野(当時中日監督)に生電話をかけてこの時の話をしたら、星野は「あのときのガキはお前だったのか」としっかり覚えていた。
珍プレーの魁ともいえる、宇野勝によるヘディング事件の時の投手としても有名(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)。打者は山本功児)。この時星野は怒りのあまりグラブをマウンドに叩きつけたが、この星野の激怒がなかったら、このプレーもここまで有名にならなかった可能性がある。この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」と食事を賭けて競っていたらしい。この試合では宇野のエラーまで無得点に抑えていたが、エラーで点を奪われ完封が消え、そのため星野は激怒したという。最終的にこの試合は、エラーで失った1点のみに抑えて完投勝利を飾っている。
引退試合となった1983年の阪急ブレーブスとのオープン戦に、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれマウンドを去る。その際、マウンドへ花束を届けに行ったのは、親友である歌手の小田和正だった。
NHK解説者時代には、「抱かれたい男」NO.1に選ばれたことがある。人気が全国区になったのは現役時代ではなく、この解説者時代からである。

中日監督時代
1987年、前年のシーズン途中で休養した山内一弘の後任として中日監督に就任。ロッテオリオンズからの落合博満を獲得するなどの大規模なトレードを断行し、チームカラーを一新した結果、1988年に中日を6年ぶりのリーグ優勝に導いた。中日から生え抜きの監督としての優勝は、星野が初めてのことである。1991年限りで勇退し、高木守道へバトンタッチする。その後は、再びNHK解説者・日刊スポーツ評論家を務める。
NHK解説者時代の1994年、任期満了で退陣が噂されていた高木守道監督の後任として再就任を要請されるが、「高木さんがやったほうがいい」と固辞。しかし高木監督が1995年のシーズン途中で辞任し、1年間で監督が2回入れ替わる(高木→徳武定祐→島野育夫)などしてチーム成績が低迷し、1996年に監督復帰。1997年にはナゴヤドームが完成するも、愛妻・扶沙子が開幕前に死去。チームも開幕から低迷し、高木監督時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。しかし2年後の1999年、11年ぶりとなる2度目のリーグ優勝を果たす。2001年、4年ぶりにBクラスに転落。この年を、山田久志投手コーチ兼ヘッドコーチにバトンタッチして勇退した。
監督時代は、鉄拳制裁も辞さない島岡吉郎式の熱血指導を行っていた。怒号を響き渡らせながら選手を殴りつけるのは日常茶飯事で、時にはナゴヤ球場の扇風機やロッカーといった備品にも怒りをぶつけ、その様子はテレビ番組でも取り上げられたほどだった。これを一番受けたのは中村武志だと言われ、星野が若い時には顔が変形するほど殴られていたという。しかし監督生活で最も愛した選手も中村といわれ、中村もまた星野を師と仰いでおり、その師弟関係は深い。
鉄拳制裁を受けないようにするには、結婚すれば良いらしい(本人談)。選手の家族に無様な姿を見せないように配慮する、ということである。ただし阪神監督時代の2002年に、既婚者であった矢野輝弘をベンチ奥で殴ったことがある。
選手への恫喝・罵声は日常茶飯事であったが、叱り飛ばした選手に対して即座にフォローするのを決して怠らなかった。エラーなどミスをした選手にも、後に必ずそのミスを返上するチャンスを与えていた。また、選手や裏方の家族の誕生日に花束や指輪などのプレゼントを贈るなど、非常に細やかな心配りを見せることでも有名である。
しかし「失敗してもチャンスは与える」反面、「プロは結果を残さなければ去るべし」という冷徹なポリシーも持ち続けていた。ドラフト1位で入団した新人の金森隆浩投手が先発し、1イニング2本の満塁ホームランを打たれ10失点で降板したときは、「もう2度と俺の目の前に姿を見せるな!」と言い放ち、その翌年台湾にトレードに出した。また、負け試合で登板して7失点した入団2年目の山田貴志投手を、その年限りで解雇したこともある。
監督就任当初はよく乱闘していたため「暴れ星野」と呼ばれ、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でも先頭を切ってベンチを飛び出す様子がよく映されていた。「乱闘のときベンチにいるやつは罰金だ。止める役割でもいいから全員グラウンドに出て来い!」と言ったとされる話はよく知られている。しかしグラウンドを離れたときは礼儀正しく人懐っこい性格だったため、敵チームや審判からの評判はむしろ非常に良いものだった。
試合に負けた時は悔しさをあらわにし、選手を煽ることもあった。2001年の阪神戦で八木裕選手に打たれて試合に敗れた時は「はちきに打たれた」、同年西武ライオンズから阪神に途中移籍した谷中真二に好投された時には「知らない奴に負けた」と発言している(八木のことは今でも「はちき」と呼んでいる。谷中については阪神監督就任の年のキャンプで「エースになれる逸材」と評価している)。
監督時代につけていた背番号77は、尊敬する監督の一人、川上哲治にあやかったものである。その采配は、熱血漢と言われる外見とは裏腹に、投手力をベースにバントやエンドランを多用する「緻密な野球」であった。場面によっては長距離打者にバントをさせることも多く、そういった面での評価は分かれているが、投手交代のタイミングには一貫して定評がある。
その一方で与田剛、森田幸一、上原晃、宮下昌己といった若手投手を酷使して潰したとされ、一部ファンから「キラー星野」と呼ばれ批判されていた。また他球団から田中幸雄、木田勇などを引き抜くもすぐに引退してしまったため、「投手の墓場」などと揶揄された事もあった。
中日の第2次監督時代から選手補強に関しては相当積極的で、中でも当時FA制度や逆指名制度で怒涛の補強をしていた巨人に対しては、過剰とも言えるほど対抗意識を燃やしていた。宣銅烈、レオ・ゴメス、サムソン・リー、李鐘範や、明治大学の後輩である武田一浩、川崎憲次郎といった選手の獲得は、もちろんチーム補強の意味合いが第一とはいえ、「巨人に取られたくない」という感情も多分に入っていたのではと言われている。しかし、あまりの強引な補強ゆえか失敗もあり、「有力選手を金で集めまくって、結局巨人と同じじゃないか」という批判の声もあった。
大型補強を断行する一方、生え抜き選手を放出することも多かった。第一期監督時代には、大島康徳や確執を噂された平野謙、中尾孝義、山田和利、音重鎮(第2次監督時代に中日復帰)、第2次監督時代では、前原博之、清水雅治、大豊泰昭、矢野輝弘、門倉健、鶴田泰、種田仁などを他球団に放出した。しかし最初の監督時代に生え抜き選手を多く放出したのは、「自分の現役時代を知る選手は使いづらい。できれば放出したほうがよい」という、川上哲治の考えから来ているものである。この件に限らず、川上の教えは星野の采配にかなり大きな影響を与えている。
明大の後輩(武田一浩や川上憲伸、小笠原孝)を自球団に誘いたがることでも知られているが、鳥越裕介は同じく星野の後輩であるにも関わらず、福岡ダイエーホークスに放出されてしまった。鳥越はこれを根に持っており、1999年のダイエー優勝祝賀会でのインタビューで星野に対して「あなたが放出してくれたことで優勝することができました」と発言、多くのファンから非難されていた。
選手にタイトルを獲らせるためには手段を選ばない一面もあった。1987年、小松辰雄が最多勝を争っていたときは、消化試合3試合に5回から投げさせて勝ち星を稼がせ、タイトルを獲得させた。しかしこれが悪印象となって、小松はこの年の沢村賞を逃すことになる。1991年には、最優秀防御率のタイトルがかかっていた今中慎二を、既に優勝が決まっていた広島東洋カープ戦のダブルヘッダーの1試合目で完投させ、2試合目も今中に連投させた。1999年は、既に中日の優勝が決定し日本シリーズ出場が決まっていたにも関わらず、最多勝まであと1つと迫っていた野口茂樹をシーズン最終戦(対ヤクルト)で中4日登板させている。
1988年、外国人枠の関係で1軍の試合に出られなかったラルフ・ブライアントを近鉄バファローズへと放出。この年中日は優勝したが、ブライアントは移籍後、6月下旬からの74試合で34本のホームランを放ち、以降も在籍8年間で3度のホームラン王を獲るという大活躍を見せた。当時、中日の一軍には郭源治とゲーリー・レーシッチという有力な外国人がいたため、ブライアントをレギュラーとして使わなかったのも仕方ない面はあるが、もしこの年の優勝が無ければ、星野は「イチローを見抜けなかった」と言われるオリックス・ブルーウェーブの土井正三監督のように酷評に晒されていた可能性はある。余談だが、ブライアント、イチロー両選手が活躍していた当時の近鉄、オリックスの監督はいずれも仰木彬であった。
1996年オフに長嶋一茂が、当時巨人監督で父であった長嶋茂雄から戦力外通告を受けた事を聞いて「ミスターの息子は使えないよ。うちはいい選手もおるし、来ても守備出来る所がないよ」と獲得する意思のない旨をコメントしていた。結局一茂は、広島、近鉄、オリックスから獲得意向があったものの、右肘の状態が悪くその年限りで現役を引退している。
1999年は、1954年の西鉄以来45年振りとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走っていたが、シーズン終盤巨人の猛追にあい、1.5ゲーム差まで追い上げられた。しかしそこから一気に8連勝して突き放し、追いすがる巨人を何とか振り切って、最終的には6ゲームの差をつけて自身2度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝はチーム史上初で、これまでのジンクスをも打ち破った。もしこの時巨人に逆転優勝されていたら、V逸の責任を取る形で監督を解任されていたかもしれず、そうなれば後の阪神監督就任もなかったであろう。星野にとって、この2度目の優勝こそが監督としての評価を上げたと言っても過言ではない。
2000年5月6日、ナゴヤドームでの横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から橘高淳審判に暴行を加えて肋骨を骨折させ、刑事告発される。詳しくは橘高の項を参照。

阪神監督時代
中日監督を勇退した直後の2002年、阪神タイガースの野村克也監督から後任監督への就任を要請される。周囲は反対したが星野はこれを受諾、中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫をヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。就任1年目には4年連続最下位だったチームを4位に押し上げ、同年オフには選手の大量解雇を断行。同時に金本知憲、伊良部秀輝をチームに迎え投打の大型補強を行った。翌2003年には、金本、伊良部、矢野輝弘、片岡篤史、井川慶、ジョージ・アリアスら主力選手の大活躍により首位を独走、チーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たした。優勝時のインタビューでは、「あー、しんどかった」「(優勝を意識し始めたのは)今日です!」とコメントして、甲子園の観客を笑わせた。
ナゴヤドームで中日戦が行われた2003年7月27日、試合中に体調不良を訴えて倒れ、ベンチ裏で治療を受けた。その後も度々持病の高血圧や不整脈で体調を崩し、島野ヘッドコーチに「島ちゃん、あとは頼む」と試合を任せ、ベンチに座ったまま黙り込むことも多かった。2003年の日本シリーズ終了後、体力の限界から監督を勇退。2004年1月1日に同球団のオーナー付シニアディレクターに就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受け、母校・明治大学の評議員にも就任。
2003年、巨人の原辰徳監督がフロントとの対立から辞任したことについて、「2年辞任なんてまだ早すぎる、オレの後(中日監督)を継いだ山田も2年で終わった」とコメント。対巨人最終戦終了後の花束贈呈で男泣きする原に対して、「くじけるな。また野球を一から勉強しろ」と応援の言葉を贈った。

勇退後
勇退後は阪神のシニアディレクターを務める傍ら、アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。
2004年8月〜9月放送『NHK人間講座』(NHK教育テレビ)では、月曜日担当の講師として、「人を動かす 組織を動かす」と題した講義を行っていた。また、同年のアテネオリンピックのジャパンコンソーシアム製作の開会式ゲストと野球中継の解説者として出演。TBSによる2005年のマスターズゴルフトーナメントの放送にもゲスト出演した。
2005年1月2日にTBS系で放送された『星野仙一物語〜亡き妻へ贈る言葉』では、かねてから親交のあった石橋貴明が星野役を演じていた。扶沙子夫人役は黒木瞳、娘役は内山理名と上原多香子がそれぞれ演じた。また、1988年12月31日に放映された「泣くなセン!燃える男 星野仙一物語」では、東幹久が星野を演じている。
2005年8月、巨人の次期監督候補として名前が挙がった。しかし9月10日、2006年も阪神に残留する予定である事を公式に表明。
2005年12月20日、名古屋レインボーホールにて、NHK「居酒屋の星野仙一」の収録を兼ねて、親友である小田和正のコンサートステージにゲストとして呼ばれる。小田からは「芸のないゲスト」と紹介され、ステージ上では現役時代や監督時代の話になり、熱烈な野球ファンである小田から「プロ野球投手・星野仙一」に対する素朴な質問を受け、約7000人の観客を前にして質問に答えていた。
球界に幅広い人脈を持つ一方、政財界やマスコミ・芸能界との交流も深く、前述の石橋貴明、小田和正や明石家さんま、鳳蘭と親交があり、鳳の紫綬褒章受賞記念パーティにも駆け付けている。この他にも、阪神ファンの紺野美沙子、渡辺謙、中日ファンの峰竜太、加藤晴彦といった芸能人や、テレビ朝日の渡辺宜嗣、元東海テレビの吉村功、CBCの久野誠、毎日放送の角淳一らアナウンサーとも交流がある。元NHKの実況アナウンサーの島村俊治とは旧知の仲で、星野の娘の結婚式にも出席した間柄である。また、東京都の石原慎太郎知事とは中日監督時代から親交があり、石原は星野のことを「仙ちゃん」と呼んでいる。
中日時代の先輩にあたる板東英二は、板東の方が7歳年上であるにも関わらず星野に敬語で接しており、監督勇退後も星野を「監督」と呼んでいる。星野も板東のことを「板ちゃん」と呼び、敬語を使わず気軽に付き合っている。
田淵幸一、山本浩二とは、大学時代から同学年の親友同士として知られている。現役・監督時代には、遠征の際に互いの家に泊まることもしばしばあったという。田淵が星野政権下で阪神の打撃コーチに就任したときは「友達関係を一切捨てる」と言っていたが、星野勇退に伴ってコーチを辞任した時は「これでようやく前みたく『仙ちゃん』と呼んで普通に話せるよ」と笑っていた。

発言
2003年8月5日、阪神の監督として神宮球場のヤクルト戦に乗り込み(しかし試合は雨天中止)、その時の新聞記者とのやり取りの中で、神宮球場の隣の国立競技場で行われるサッカーの親善試合・FC東京対レアル・マドリード戦について、「サッカーはTシャツと短パンでできる競技。野球の方が厳しい」と発言。多くのサッカーファンや関係者から「雨で中止になる野球の方が甘い」「ユニフォームだけで何を判断できるのか」と批判された。また前日には「デビッド・ベッカム(レアルの人気選手)よりこっち(野球)のほうが人気がある」と発言している。
2004年に「アテネオリンピック選手派遣問題」が起こると、各球団の派遣選手数の制限撤廃を訴えた。選手の派遣に消極的だった中日の落合博満監督に「世の中には不公平が付きものだ」と選手の派遣を促したが、当事者の一人であるヤクルトの若松勉監督は「監督を辞めた人だからこそ言えるんだ」と反論していた。
2005年11月12日、井川慶が2004年オフに続きポスティング制度でのメジャーリーグ移籍希望をほのめかしたことについて、「残るというのなら残ればいいし、行きたいと言ってきたら行かせればいいんじゃないかと言っている」と発言。しかし同時に「もっと修行して、技術を磨く方に専念する方がいいんだが」とも語っている。一方、その前日に更新した自身の公式サイトで井川について「チームの中に入ってこない。チーム内の精神衛生を悪化させるだけで、チームにとって本当に大切かということだ」「精神衛生?大事な試合でビシッと抑えていない。優勝したと言ってもファンが認めてくれていないだろう」と、自らの夢の実現に凝り固まった井川を引き留めるのはチームにとってマイナスであると述べ、岡田彰布監督との意見の相違を際立たせている。
星野が監督だった時代から岡田彰布コーチ(当時)との意見の食い違いは頻繁にあったようで、他のコーチ陣も星野派と岡田派に分かれていたと言われている。しかし、星野の前任である野村克也元監督に冷遇された岡田を、次期監督含みで一軍コーチに就任させたのは星野であり、自分が監督を辞めたあとのために、岡田を指導者として一人前に育て上げようともしていた。
2006年4月、オリックス・バファローズの清原和博が、デッドボールに対する報復予告とも取れる発言を行ったことに対し、「清原は内角攻めが苦手だったり、他のバッターがよけられるボールをよけられなかったりするところがあるわけだけれど、それを自分の技術や対応力に帰してものをいうのではなく、『今度当てたら誰でも、命を懸けてマウンドに突っ走ってそいつをぶっ倒す!』なんていうことをいったら、ヤクザと同じでそれは“脅し”だ」と批判している。
2006年6月、村上ファンドの村上世彰社長の逮捕に対して「天罰だ」と発言。これに対し村上側から反論を受けたが、星野の反論はマスコミを通じて表されていない。
NHK総合テレビのプロ野球中継において「巨人が弱くなったのが視聴率低迷の理由だとは思わないか」と実況のアナウンサーに問われ、「その考え方は時代遅れだと思う。巨人さえ強ければいい時代は終わったんですよ」







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【2006/09/27 13:11】 | 芸能関係
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