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愛媛県松山市出身。松山東雲女子大学卒業。吉本興業大阪本社所属。吉本総合芸能学院(NSC) 23期生。血液型はB型。星座は獅子座。愛称「ともちー」。
旅館の仲居から、通天閣のエレベーターガール、ローカル番組のリポーターを経て芸能界へ転身。一念発起して芸人を志し、知名度は全国区に至る。 人物描写に優れ、旅館の女将&仲居さん、学校の先生、街中のお姉ちゃん・おばちゃん・おっちゃんネタ、クラブのママといった水商売の女、極道の妻などになりきる「ひとりコント」を持ちネタとしている。 将来はシュールなお笑いも出来る事を目指しているという。歌唱力には定評があり、2004年には『Tokyo』で歌手デビューもしている。 同時期にメディア露出が増えた青木さやかと比較される事があるが、本人は「自分は芸人なので、バラエティ番組よりしっかりとネタを披露できる場で仕事をしていきたい」と語っており、青木とは一線を画す。オールナイトニッポンのスペシャル「渡辺美里のオールナイトニッポン」でゲスト出演した際にも「毒舌は言う気にならないんですよね」と語っている。そのためか「マルチタレント」と呼ばれるのを嫌がっている。 腹部が肥満気味であり、OLを演じる時などは、肉付きのよい太ももにミニスカートをはき、脚を広げて舞台で演じるため、中が見えそうになる事がある。毎日放送のラジオ番組「ゴーゴーモンキーズ」の企画で撮影会をやる事になり(後述)そのために減量をしたが、間もなくしてリバウンド。又、2005年7月9日に放映されたTBS系のテレビ番組「爆笑問題のバク天!」でも1週間の短期集中ダイエット企画を行った。この時はウエストのサイズを78cmから69cmへ落とした。 お笑いブームに乗り知名度が全国区になった後も大阪在住を続けていたが、2006年春に活動及び生活の本拠を東京に移した。ただし、現在も定期的に大阪のうめだ花月などに出演している。 地元・愛媛県には、彼女の後援会がある。 少女時代、歌手を夢見て地元の数々のカラオケ大会に出場。全国大会で準優勝の経験もある。 大学時代から地元のテレビ局で『とにかく愛媛5:00』などのレポーターとして活躍。一時期は多くのレギュラー番組やCMを抱える「愛媛のスター」となるが、お笑い好きの血が騒いだのか、VTRでお笑い演出に走りすぎたため、やがて地元の視聴者やテレビ局スタッフから「不真面目だ」と総スカンを食らい、レポーターの仕事を降ろされてしまう。大学卒業の前後には、地元の愛媛県内で、実際に旅館の仲居さんをしていた事もある。 地元でのレポーターの座を追われてしまったが、芸能界の夢を捨てきれず2000年8月に大阪に移り、吉本興業の若手タレント養成所・NSCに入学(23期生)する。この頃、通天閣のエレベーターガールのアルバイトをしながら大阪のおばちゃん達の生態を徹底研究。 2001年3月、NSC卒業。以後baseよしもとを中心に活動するも鳴かず飛ばず。 この頃、関西ローカル「吉本超合金F」で自室をガサ入れされ私服のセンスがない事をバラされる。これを見たFUJIWARA原西孝幸は「うわっ、オレのオカンと同じセンスや!」「彼女がデートに着てきたらビリー破るで!」などと酷評。又、「イカせてSEX中毒素人娘」なる秘蔵AVを発見・その場で再生され、藤本敏史に「友近、お前いきなり3Pやないか!」とつっこまれる(30秒後、実は4Pだったことが発覚し「友近、お前3Pや思たら4Pやないか!」と更につっこまれる)。 2002年、ピン芸人NO.1を決める「R-1ぐらんぷり2002」でファイナル進出。2003年、第33回NHK上方漫才コンテストで優秀賞、NHK新人演芸大賞で大賞をそれぞれ受賞。徐々に世間に認知され始め全国区タレントへ。 「爆笑問題のバク天!」(TBS)に出演。主に「恐怖のバク天芸人」「パラパラ日本昔ばなし」などのコーナーを担当。2006年1月21日の放送では「完全メイド宣言」に一日メンバーとして入団した。
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身長・体重:188cm 104kg
投打:右投右打 出身地:大阪府岸和田市 生年月日:1967年8月18日 血液型:B型 球歴・入団経緯:PL学園高 - 西武(1985年 - 1995年) - 巨人(1996年 - 2005年) - オリックス(2006年 - ) FA行使:1995年(1回目) プロ入り年度・ドラフト順位:1985年(1位) 英語表記:KIYOHARA 推定年俸:2億5000万円(2006年、その他インセンティブ契約1億円) 守備位置:一塁、三塁 中学〜高校時代 中学生までのポジションは投手であり、リトルリーグでは完全試合を達成。高校はPL学園高校に進学する(高校進学を決めるにあたって天理高校かPL学園かで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、天理高校での3年生が練習をし、1年生が球拾いをしている姿と対照的に、PL学園での学年に関係なく全学年同じ練習メニューができることを知り、PL学園に進学することを決める)。入学当初の希望ポジションは投手であったが、桑田真澄の実力を肌で感じ、野手を選んだ。全国から集まる精鋭揃いのPL野球部の中で1年生から4番に座り、エース・桑田とともに1年生の夏から甲子園に5季連続出場(1年生の夏に優勝、2年生の春・夏は共に準優勝、3年生の春はベスト4、3年生の夏は2度目の優勝を経験)。KKコンビと呼ばれた。打っても甲子園通算13本塁打を放ち植草貞夫に「甲子園は清原のためにあるのか!」といわせたほどである。3年生春の浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦では投手として登板も果たした。高校通算64(あるいは66)本塁打を放った。 西武時代 PL学園を経て、「王貞治を超えるのでは」とも言われたその実力の行き先は1985年ドラフト会議の目玉であった。清原本人は巨人入りを熱望(もしくは、阪神)。しかし、投手の世代交代を懸念し、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田を1位指名。当の清原は南海(現・ソフトバンク)、日本ハム、中日、近鉄(現・オリックス)、西武、阪神の6球団から1位指名を受け、抽選の結果、西武が交渉権を獲得。清原がドラフト会議直後の記者会見で悔し涙を必死に堪える姿が放送された。 なお、"巨人が清原との指名内定を破棄し桑田強行指名に"という噂があり、当時巨人監督の王貞治がドラフト前に清原あてに贈呈した"巨人指名を裏付けするサイン色紙"がその根拠として報道されたが、「何もドラフト指名を約束するものではなく単に知人を通じサインの依頼があったから送ったもの」ということで、王はサイン色紙とドラフト指名の関係は否定している。 清原はそのまま西武に入団。背番号"3"が与えられた。1986年シーズン終盤にルーキーながら秋山幸二から4番の座を奪い、31本のホームランを放って新人本塁打記録の最多タイ(高卒新人では最多)を記録し、打率.304、31本塁打、78打点で新人王を獲得。一躍パシフィック・リーグのスターとなった。秋山とのコンビは「AK砲」と呼ばれて恐れられたのちにオレステス・デストラーデが加わり「AKD砲」となる(秋山が背番号を1番に変更したこともあり、ジャイアンツの王・長嶋の「ON砲」以来のインパクトと人気を誇った。吉永小百合も清原ファンだった)。また、守備も巧みでゴールデングラブ賞を5度受賞、盗塁もシーズン2桁成功を2度記録しており、まさに「攻・走・守」三拍子そろったキャリア最盛期であった。ちなみに、ポジションは普段は一塁手であったが、日本シリーズでセリーグの本拠地での試合では、普段指名打者デストラーデが一塁手、清原は三塁手を守った。またこの年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。 以後、1986年から1988年まで、1990年から1994年までの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年〜1988年、1990年〜1992年)に貢献。1994年の開幕戦には、開幕戦初のノーヒットノーランを阻止した(その時のピッチャーは野茂英雄)。オールスターなど檜舞台に滅法強く、日本シリーズでは調子を落とす事無く一貫して4番を打ち、1986年、1988年は優秀選手に、1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。 巨人時代 1996年、FA宣言をして念願の巨人に移籍。巨人監督の長嶋茂雄が清原を獲得する際に言った「僕の胸に飛び込んで来て欲しい」というセリフは有名(同時期に交渉していた阪神監督の吉田義男が「私が清原をどれだけ求めているか、(タイガースのユニホームの)縦ジマを横ジマにしてでも獲得したい」という言葉も知られている)。しかし長嶋の本心はファーストのレギュラーで4番打者であった落合博満を翌年もそのままレギュラーで使うつもりでいたともいわれる。だが、オーナーの渡邉恒雄は客寄せのためには清原が必要であると考えたことや、当の落合自身が「清原は獲ったほうがいいですよ」と長嶋に助言したことから仕方なく清原を獲得したといわれている(落合自身は清原の技術を高く買っており、当時成績が下降していた清原をコーチ的な役割で叩き直したいと思っていたという。清原を三塁で起用すればよいと長嶋に話していたが、清原は一塁を守ると主張。結果、落合はチームを去った)。なお、このFA移籍劇により清原ファンを公言していた吉永小百合は「あの涙は何だったの」とコメントを発表、清原のファンをやめている。 1997年は開幕から4番の座を張る。しかし、打率2割そこそこのスランプに悩まされ、その影響でファンからは応援ボイコット(応援歌&コールなし)の屈辱も味わう。移籍1年目は当時のセリーグ新記録となる152三振を記録するなど打率.249 32本塁打 95打点という数字に終わった。 1998年の開幕戦は、前年の不振のせいで松井が4番の座を張ることが多くなった。しかし、松井が開幕からスランプに悩まされ、清原は開幕から前年とは打って変わって打ちまくり、4番に返り咲いた。そしてこの年清原は23本塁打を放ち、原辰徳がもっていたプロ入り1年目からの12年連続20本塁打の日本記録を塗り替えた。 1999年は開幕から不振に悩まされ、当時の阪神タイガースの藪からのデットボールで左手を亀裂骨折、さらに6月には広島戦でクロスプレーの際に右足の負傷で、試合数は86試合に留まり、連続20本塁打記録が13年で途切れてしまった。そこで清原は巻き返しを図るため、その年のオフに渡米し、肉体改造に取り組んだ。 2000年はキャンプ中に肉離れを起こして、プロ入り初の開幕2軍スタートとなった。しかし、7月7日のその年の初打席で代打3ランを放つ。それから夏場にはドミンゴ・マルティネスからレギュラーの座を奪い取り、3割近い打率を残した。またこの年、元タレントの木村亜希と結婚。2002年8月23日に長男・正吾君が誕生した。ちなみに父の名が「かずひろ」で息子の名が「しょうご」というのは、元・横浜ベイスターズの投手の佐々木主浩と同じである。 2001年は開幕から怪我することなく打ち続け、終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と巨人入団以来最高の成績を残した。 2002年は規定打席不足ながら打率3割を記録したが、西武時代はシャープな細面の顔だったのが丸々とした顔になり、別人のような太いウエストとなってしまった年とされる。体重増加と共に足も遅くなり、守備範囲も狭まる。また肉離れ等の怪我が目立つようになった。 2004年は開幕からロベルト・ぺタジーニと併用され、思うような活躍ができなかった。しかし、6月4日のヤクルト戦で第1打席に安打を放ち、史上31人目、巨人の選手では落合博満以来6人目の2000本安打を達成した。同年シーズン終了後、監督の堀内恒夫の戦力構想から外れたことが判明。退団・引退の危機に直面するも、契約があと1年残っていたこともあり、残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」と、泣きながらコメントを残した。 2005年の清原は、大リーガーのバリー・ボンズ並みのダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。2005年3月13日の対阪神とのオープン戦の試合開始前の余興で松平健のマツケンサンバを熱唱し、人気を博した。もちろん、松平健がその歌で扮する格好をした。そして、開幕4番のシーズンに挑んだが、5月以降は主に6番を打つことが多かった。4月29日の広島東洋カープ戦で、広池浩司からホームランを打ち、史上8人目の快挙となる通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時.269まで上昇した。 しかし、交流戦のオリックス戦で投手の山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障も重なって成績は徐々に低迷し、張本に並ぶプロ入り1年目から20年連続2桁本塁打の日本記録を作るも、終わってみれば自己最低打率.212を記録。そして、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月に正式に自由契約選手として公示された。 オリックス時代 巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後、現役続行を望む清原に対してオリックス・バファローズシニアアドバイザー(SA)の仰木彬から「大阪に帰って来い。おまえの最後の花道は俺が作ってやる」というオファーがあった。同年12月の仰木逝去を機に、清原は同球団への移籍を決意する。背番号は巨人時代に引き続き"5"(当初は西武時代の3と、巨人時代の5を足した"8"も用意されたが、その"8"は同年入団の中村紀洋がつけた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。 一時は120kgに達していた体重をハードトレーニングによって約20kg絞り込み、新天地における復活に懸けた。また球団が吉本興業と業務提携を結んでいることから、中村らと共によしもと新喜劇にも出演した。 また、オリックス移籍後の対巨人との交流戦ではレイザーラモンHGの物まねをし、「フォー!」、「セイ!」、「オーケーイ!」、「どうもー、ハードゲイ清原でーす!」などと言って周りを笑いの渦に巻いた。 2006年7月、かつての僚友・松井秀喜が(当時の清原が好きな芸能人であった)タレントの酒井美紀と交際していることを知り、清原は「ワイも美紀ちゃんのことが好きやったけど、秀喜が美紀ちゃんを好きなら、秀喜に譲ってやってもええで」と言って、泣く泣く酒井美紀のファンをやめた。 PL学園での同学年の松山秀明(PL学園時代の主将)、内匠政博や先輩の新井宏昌がコーチをしている。 5月21日の阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放ち史上8人目の通算1500打点を達成した。 5月26日の横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔投手から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーン投手から放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。 7月23日のオールスター第2戦では、あと1本と迫っていたオールスター最多本塁打を狙い、8回2死走者なしの場面で、因縁の相手、藤川球児に対し「代打・清原」が告げられたが151キロのストレートが真ん中高めに決まり、空振り三振に倒れている。 清原は「すごいストレートだった」と素直に完敗を認めた。 8月29日の西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続二桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打、又、通算サヨナラ安打(20本)記録でプロ野球歴代単独トップにたった。来期も現役続行が濃厚である。
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小さいころから音楽、文学に熱中し、特に当時やっていた「ザ・ベストテン」という歌番組は下位20位までチェックするという熱の入れようだった。中学校は私立和光中学校へ進学、小山田圭吾と出会う。高校も系列の和光高等学校に進学するかと思われたが、神奈川県立多摩高等学校を受験して進学。部活動ではバンドを組んでいた。高校卒業、一浪し東京大学に入学する。入学した動機は小林よしのりの『東大一直線』を読んだことから。
1989年、東大在学中からアマチュアバンド「ロリポップ・ソニック」にて活動。これが、プロデビューを果たすと同時に、「フリッパーズ・ギター」と名前を変更。アマチュア時代、フリッパーズ・ギターデビュー当初は五人だったが、直後に小沢と小山田の二人になる。フリッパーズは、オリジナル・アルバム三枚といくつかの編集したアルバムを残して1991年に解散。 フリッパーズ・ギター解散後、ソロで音楽活動を開始する。 1993年、「天気読み」でデビュー。1stアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』をリリース。 1994年、ヒップホップ・グループであるスチャダラパーと共演したシングル「今夜はブギー・バック」をリリースし、50万枚を超える大ヒットになる。このヒットにより小沢健二の名は一躍広く知れ渡り、また日本にラップ・ミュージック / ヒップホップのポピュラー化を促すこととなった(この点については日本のヒップホップを参照されたい)。 ソウルミュージックを取り入れた甘い楽曲でポップに仕上げられた2ndアルバム『LIFE』は、大ヒットとなる。 これと前後してメディアでの軽快だが知的で余裕のある振る舞いやファッションも作用し主にOL層から渋谷系の「王子様」と称されるまでの人気を博するようになり、時の人として世間を騒がせる。1996年、ジャズテイストの3rdアルバム『球体の奏でる音楽』をリリース。渋谷毅がピアノを担当している。 その後暫くの沈黙の末、ニューヨークの今の音として(全てNY録音)R&B、AORに傾倒した4thアルバム『Eclectic』を2002年にリリース。 現在、日本におけるメディアの露出は極めて少ないものの、頑なに自己の作品を創るその姿勢は、まるで純文学作家のようである。 フリッパーズ時代のCDについて、ゲスト出演したあるラジオ番組で「持ってる人は捨てちゃって下さい、燃えないゴミの日にでも」とコメントし物議を醸した。 コーネリアスのソロ1stアルバム「THE FIRST QUESTION AWARD」を「ピチカートファイブの音とフリッパーズギターの歌詞が好きな人が作ったような曲」と酷評した。これに対して、日比谷で行われた小沢健二の1stライブを見にきていた小山田圭吾は、フリッパーズ・ギターの頃の楽曲とは正反対のシンプルでロック色の強い楽曲を「なんだか尾崎豊みたいだった」と否定的なニュアンスで評した。 2005年10月から、父、小澤俊夫の発行する季刊誌「子どもと昔話」に『うさぎ!』という小説を発表している。 2006年3月8日には「Eclectic」以来約4年ぶりとなるオリジナル・アルバムとして全曲ボーカルレスによる「毎日の環境学: Ecology Of Everyday Life」をリリースした。エレクトロニカ、クラブ・ジャズ、ラウンジ・ミュージック、インストゥルメンタルR&B、アンビエントといったジャンルに属するであろうサウンドである。参加ミュージシャンとしてVincent Chancey、Marty Ehrich、Erik Friedlander、Arron Heick、Steve Kahn、Steve Nelson、Adam Rogers、Benjamin Love、Kenny Seymour、Mike Hamptonなどのジャズミュージシャンやファンカデリックのメンバーが名を連ねる。この作品についてアルバムジャケットにうさぎが描かれていることなどから小説『うさぎ!』のサウンドトラックといえるのではないかと憶測がとぶが本人は今回一切メディアへは登場せず真否の程は定かではない。 2006年現在、廃盤となっている8cmシングル群にはプレミアがつき、一部では高値での取引がなされている。 小沢健二による造語:「ホルモンタンク」―下目蓋のふくらみ(涙袋)を示す語として現今広く用いられるが、これは1997年出演TV『おしゃれカンケイ』トーク中の発言に端を発している。(『目の下にさ、ほらぷっくりとある女の人いるじゃないですか、あれ俺すごい好きなんですよ、あれを「ホルモンタンク」と名づけてて。』) シングル 「天気読み」(1993年7月21日) 「暗闇から手を伸ばせ」(1993年11月24日) 「今夜はブギー・バック (nice vocal)」(小沢健二 featuring スチャダラパー)(1994年3月9日)-スチャダラパーのシングルとしてもsmooth rapバージョンとなってリリースされている。 「愛し愛されて生きるのさ / 東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」(1994年7月20日) 「ラブリー」(1994年11月24日) 「カローラIIにのって」(作詞:佐藤雅彦 / 内野真澄 / 松平敦子)(1995年1月1日)*-小沢のシングルの中で売り上げナンバーワンとなった曲であるが、彼が作詞・作曲のいずれにも関わってない唯一の曲でもある。 「強い気持ち・強い愛 / それはちょっと」(共に作曲:筒美京平)(1995年2月28日) 「ドアをノックするのは誰だ?」(1995年3月29日) 「戦場のボーイズ・ライフ」(1995年5月17日)* 「さよならなんて云えないよ」(1995年11月8日) 「痛快ウキウキ通り」(1995年12月20日) 「ぼくらが旅に出る理由(Single Edit)」(1996年5月16日)* 「大人になれば」(1996年9月30日) 「夢が夢なら」(1996年11月29日) 「Buddy / 恋しくて」(1997年7月16日)* 「指さえも・ダイスを転がせ」(1997年9月18日)* 「ある光」(1997年12月10日)* 「春にして君を想う」(1998年1月28日)* *はアルバム未収録のシングル。
テーマ:お気に入りミュージシャン - ジャンル:音楽 |
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神奈川県川崎市出身。上智大学比較文化学部卒業。マナセプロダクション所属。
父親の転勤で生後10ヶ月から米カリフォルニア州ロサンゼルスで育つ。 1985年帰国。 1988年、ミュージカル『小公子セディ』の全国公演において主役セディを演じ舞台デビュー。 同年、『フィフティーン』で歌手デビュー。その後、歌手として数々のシングルを発表し、女優としても映画にドラマにと活躍。1990年代前半の代表的なアイドルであったが、楽曲に恵まれず大ヒットした曲はなかった。尚、事務所としては、所属事務所の大先輩にあたる坂本九の女性版に、との方針で力を入れていた。 毎年恒例の誕生パーティーの記者会見では、1990年代は特に恋愛についての話題がお約束であった。「La Festa Mille Miglia 2000」では、2002年に結婚した貿易関係の会社員と出場して話題を呼んだ。ただし、夫は一般人なので、素顔や名前は一切公表していない。 現在は夫婦でカリフォルニアに在住し、仕事の度に帰国。『どっちの料理ショー』などのバラエティーやCM、ドラマなどを中心にタレントとして活躍している。 2006年3月、NTV系『踊る!さんま御殿!!』内で妊娠4ヶ月であることを明らかにし、同年8月18日午後8時(米国時間)、3885グラムの第一子となる男児を出産。 第28回ゴールデン・アロー賞グラフ賞 (1991年2月、日本雑誌協会) 第14回日本アカデミー賞新人俳優賞(1991年3月、日本アカデミー賞協会) 第8回ベストジーニスト'91(1991年5月、日本ジーンズメーカー協議会) 「チューリップの似合う人」第一位(1994年3月、オランダ国際花き球根協会) 第24回ベストドレッサー賞受賞(1995年12月、日本メンズファッション協会) 第33回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞 及び最優秀新人賞(1996年2月、日本雑誌協会) シングル ぼくらのセディ(1988年)実質上のデビュー曲(事務所では「プレデビュー」という表現を使っている) フィフティーン(1988年4月6日)公式上のデビュー曲 ときめいて(1991年8月7日) 生きてるって素晴らしい(1992年7月24日)NHK「西田ひかるの痛快人間伝」テーマ曲 涙 止まらない(1993年5月12日) きっと愛がある(1994年5月20日) 人生変えちゃう夏かもね(1995年3月17日) 私のNO.1〜You're the only one〜(1996年5月2日) pure(1998年) AS PURE AS…(1999年) 空色(2000年)
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とんねるずとしてのデビュー直後は、相方である石橋貴明が番組内で強烈なまでの暴走を繰り返す事に対し、木梨はその石橋をなだめたりする「ストッパー」的な役割を果たしているとの印象が強かった。実際、とんねるず活動初期は女子的な言い回し(「やだーうそー」「しんじらんな〜い」「オペロンペロン」等)を多用したり、暴れる石橋を実況風に説明する、コントでは奇特な女性のキャラクターを演じるのはほとんど木梨である、などの行動から相対的にに「良い人」と見られるイメージがあった。
しかし、実際のところは石橋と共に暴れたりする際には、よく見ると木梨のほうが実はもっと大暴れしている、というシーンもあるなど、ある意味石橋よりも過激な一面も持ち合わせている。しかし、そのキャラクターイメージは石橋の影に隠れたせいか、木梨のイメージとしてはソフトなものとして統一されており現在でも、CMや自らのソロ出演番組ではそのお人よしな性格でお茶の間の好評を博している。 コントなどでは、その高い表現力を生かしたキャラで独特の芸風を披露し、「とんねるずのみなさんのおかげです」「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」でのコントキャラクター数の豊富さでは相方の石橋を凌駕する。特に「生ダラ」でのロケ企画の際には「木梨憲武」として出る回数と「なんらかのキャラを施した木梨憲武」として出る回数はほぼ半々だったほど。 「憑依芸人」と呼ばれるジャンルがあるが、木梨の演じるキャラクターはまったくの逆でむしろ自らのイメージを利用したり、勘だけで作り上げた「奇特人間」を演じる事がほとんどである。そのため、彼の演じるキャラクターには「人間・木梨憲武」がフィードバックするようなキャラクターが多数存在する。その事はキャラクターの多くに木梨本人の名前の一部が組みいっている事や木梨本人のパーソナリティを押し出したキャラが多い(例:「ノリ夫」「ノリ子」「ノリユキ」「仮面ノリダー」「木梨ノリゾー」「木梨憲太郎」「憲三郎」「祖師谷ーズ1号」「モジ三(父・作三から一文字拝借)」などなど)事から見てとれる。 運動センスのよさから生み出されるコミカルな動きは木梨独特の芸風の一つとなっており、1999年まで開催されていたとんねるずのコントライブ「こんと いん なえば」では、時々繰り出されるアドリブの動きで石橋や他の共演者の度肝を抜かすこともしばしば。また、若手芸人をツッコむ際に軽く叩けばすむところを本気でグーパンチしたり延髄蹴りを見舞うなど、奇想天外な発想の動きが目立つ。 嗜好としてはかなりな庶民派で「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「食わず嫌い王決定戦」ではゲストのお土産に高級なものや珍しいデザートが出てくると、困惑の表情を浮かべる事が多い反面、ご飯に合う食べ物が出てくると周囲を無視するほど没頭して勢い良く食べるシーンが展開される。その際に牛丼チェーン「吉野家」の素晴らしさを何度も公言したため、「吉野家」から「名前入りマイどんぶり」と「牛丼並半永久カード」が進呈される。また、「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」でハンバーガーチェーン「日本マクドナルド」の研修に行った際に共演の勝俣州和と共に「半永久バリューセット無料カード」なるものを贈呈され、感涙にむせぶほどの喜びを表した。 何でも出来る器用さが目立ちソロでのドラマ出演やCD発売も目立つ。96年には「憲三郎&ジョージ山本」名義で「NHK紅白歌合戦」に出場。そのため、木梨は「NHK紅白歌合戦」において別名義での初出場3回(1991年:とんねるず、1996年:憲三郎&ジョージ山本、1999年:野猿)という珍しい経験の持ち主となった。過去これを達成しているのは木梨と後藤真希、そして小室哲哉の3人だけという珍記録。 もう一つ、「みなさんのおかげです」内で結成された矢島工務店にも初登場の可能性があったが、こちらは徳永善也の逝去により再結成不可能となっている。 ファッションセンスの良さはお笑い界のみならず、芸能界でも随一との評判。ココリコ・遠藤は木梨のファッションを真似することが多い、と公言。実際に木梨に影響を受けたであろうファッションを番組内で見受けられることが多い(しかし、夫人である千秋からは「憲武さんは線が細いから似合う服装なんだからあなたが着ても似合わない」と止められているという)。 趣味もゴルフ、競馬、サッカー、アートと多彩。特にアート面では、今や木梨のライフワークの一つともなっている(後述参照)。 サッカーでは、帝京高校時代に全国高等学校サッカー選手権大会の予選決勝で途中出場した経験あるほどの実力の持ち主(全国大会では直前にベンチ入りメンバーを外された)。国立霞ヶ丘陸上競技場でもプレイした。同期には三菱(現浦和レッドダイヤモンズ)でプレーしたサッカー解説者の川添孝一、浦和Jrユース監督の名取篤がいる。 現在も芸能界随一のサッカーフリークであり、ワールドカップフランス大会前は、テレビ番組の企画でヨーロッパでプレーする名選手達にPK対決を仕掛けるなど、日本代表の盛り上げに一役買った。実際のプレーに関しては芸能界で群を抜いており、同じサッカー経験者の明石家さんまは、木梨の出現により番組でプレーすることを止めているという。 世田谷区千歳台の自転車店「木梨サイクル(現在は祖師谷に移転)」を経営する父・作三の長男として産まれる。相方の石橋貴明が極端な貧乏だったのに対し、中流家庭で育った。 世田谷区立千歳中学校卒業。同中学の先輩にタレントのうじきつよしがいる。 1977年に帝京高校に入学し、サッカー部に入部。部室での喫煙がばれてレギュラーから外される。サッカー部内ではムードメーカーで、当時同校の野球部にいた石橋とよくコンビを組んでネタをやっていた。 高校時代、日本テレビ系のバラエティ番組「TVジョッキー」の一般参加コーナー「ザ・チャレンジ」に出場。木梨は正司歌江(かしまし娘)・和田アキ子・ルパン三世等のものまねを披露し、5代目チャンピオンとなる。 この時、相方の石橋は同番組の常連参加者であった。木梨が同番組のグランドチャンピオン大会に出場した際に石橋が友情出演したのがテレビでの初共演となる。 高校卒業後の1980年、東京都内の東京ダイハツ販売の杉並営業所に就職。 同時期、所ジョージ司会のバラエティ番組「ドバドバ大爆弾」(テレビ東京系)にも出場。あと一息のところで賞金100万円を獲り逃がす。ちなみに同番組を経てデビューしたタレントに野沢直子やブラザー・コーン(バブルガム・ブラザーズ)がいる。 1980年7月、「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ系)に石橋とのコンビ「貴明&憲武」として出場する。 1981年、「お笑いスター誕生!」の勝ち抜き6週目から現在のコンビ名「とんねるず」に改名。 公式サイト では、とんねるずの結成時期は「1980年」と記載されている。 1992年、映画『そろばんずく』で共演した女優の安田成美と結婚。 以降の詳細はとんねるずを参照のこと。
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